ディスカッションについて考える

Written by : Masafumi Kokubo

■ディスカッション好きなアメリカ人
 ディスカッションというと、なんとなく知的な雰囲気をかもし出す。しかし実際は難しいことばかりでなく、日本人の筆者から見ればたわいの無いことに対してまでアメリカ人はディスカッションを展開する。例えば、どこのレストランが良いだとか、あの政治が言っている事はどうだとか、このスポーツはよいetc
 より深く理解していただくためにも、何点か筆者自身が体験したエピソードを挙げよう。

<エピソード(1)>
 筆者がアイダホにいた頃、一時アメリカ人の友人とルームをシェアしていた。その彼は、何に関しても「どう思う?」と聞いてくる。例えば、映画やTVニュースなど。そして、筆者が意見を述べると、彼はそれに対し意見を述べる。それを筆者が聞く。ディスカッションの始まりである。

<エピソード(2)>
 筆者がMBA学生を始めて最初に履修した科目の事。それはケーススタディの授業であり、自分が読んできた事、調べてきた事に対しディスカッションを行なう。なんと、この授業はディスカッションのみで終わってしまった。

■アメリカ人がディスカッションを行なう理由
 なぜ彼らアメリカ人は、ディスカッションを行なうのか?筆者の観点では次の言葉が的を得ているように思える。アメリカは人種構成や文化も多岐にわたっているため、2人以上のアメリカ人がいれば物事を同じ角度から見るような事は出来ない。従って、ディスカッションを通してお互いの考え方を確認する。つまり、単一民族である我々日本人と同じ結論を導くにも、“ディスカッション”という回り道をしなければスタートすら切れない。そして、この相互理解のための手段が年月を得て、ひとつの文化に成り上がったのだろう。

■日本人はディスカッション下手?
 一概に、日本人はディスカッション下手と言われる。筆者の観点では、我々日本人はディスカッションの能力が低いのではなく、ディスカッションに参加する事自体が嫌いなのだと思う。理由のひとつとしては、ディスカッションは時に争いを生む。我々日本人は争いを好まない。これは草食人種だからかもしれないが、紛れも無い事実である。従って、争いを生む可能性のあるディスカッションは行なわない。その他の理由としては、我々日本人は、自分の意見を述べる事は社会秩序を乱す行為、と捉えがちである。ディスカッションは、紛れもなく自分の意見を述べる事である。これは、時に反社会的行動と見られる事すらある。
 しかし、本当に我々日本人はディスカッションしないのか?答えはNOである。我々日本人はディスカッションを好まないかもしれないが、必要に応じディスカッションを行なう。代表的な例が、組織行動における重要な意思決定過程である。会社の年度方針を決める時、必ず重役が集まり、互いに意見を交わし、最終決定を下す。大学の運動部などでも、幹部が集まり、意見をかわして練習メニューを作る。これらは、我々日本人がCollectivism(集団主義)という文化の特徴を持っているからだ。Collective社会では、組織全体の運命を決めるような時には、必ず集団の合議によって意思決定がなされる。反対にアメリカはIndividualism(個人主義)の背景を持つ。従って、先に述べた会社の年度方針の例では、1人の人間がディスカッションを行わずに決めてしまったりするし、戦争の“GOサイン”も最終決定者は大統領1人なのである。

■筆者の観点
 さて、このようなディスカッション観を持つ筆者が、アメリカ人のディスカッションを見るとどうなるか?まず、長所から見ていこう。アメリカ人のディスカッションに臨む姿勢の長所としては、他人の意見の批判をしないという事があげられる。我々、日本人にとってディスカッションは、「殺るか殺られるか」の世界である。従って、自然と相手の意見のつじつまが合わない部分を指摘したり、時には揚げ足を取ったりする。反対にアメリカ人は人の意見を聞く。それに同意するか、従うかは別としても、一応相手の意見を聞くという事は、ディスカッションに臨むに当たっての最低限のルールといえる。
 批判的な見解では、第一に、ディスカッションの質の低さが挙げられる。これは、筆者が日本では質の高いディスカッションしか行なっていなかったのだから、仕方がないといえば仕方がない。しかしそういう事を加味しなくとも、ディスカッションの質そのものは大変低い。我がMBAで行なわれているディスカッションでも、たまに「お前、幼稚園行き直せ」と言いたくなるほど幼稚なものもある。第二に、アメリカで行なわれるディスカッションには結論が出ない事が多い。我々日本人がディスカッションする時は、たいてい結論が伴う。たとえその場で結論が出なくとも「次のミーティングまでに対案を用意する事」などと言った応急処置的な結論が導かれる。これは、日本のディスカッションが建設的なものであるからだと思う。アメリカでは、ただ自分の意見を述べ、他の人がそれに対して意見を述べ、次の人間がまた意見を述べる。これでは、組織の意思決定の際に他人の意見を求めない彼らの姿勢も頷ける。ちなみに、しばし学校のテストで「○○についてディスカスしなさい」という設問が出るが、担当教授が求めている答えにちょっとでも合っていれば、たいてい減点されない。最後の批判としては、アメリカ人はデ?スカッションしない人間の事をバカだと見るという事。彼らの観点では、ディスカッションに参加しない=ディスカッションに参加できるだけの知能を持ち合わせていない、と見る。ここでは、英語が第二国語だという言い訳は通用しない。ある程度の知能を持ち合わせていれば、何かしらの考えを持っているはずだ。そしてどんな手段を使ってもその考えを表現するはずだ、と彼らは考える。同様、ディスカッションが好きではない、ということも理由にはならない。
 筆者は何も根拠がなくこのような見解を述べているわけではない。こう思うに至った経緯をエピソード(3)として、ここで紹介する。

<エピソード(3)>
 エピソード(2)の授業での出来事。先にも述べたように、あまりにも非建設的なディスカッション主体の授業であったため、業を煮やした筆者は、ある日教授に次のように提言した。「私は、このようなディスカッションは無意味だと思います。ケーススタディというものは、与えられた環境を分析し、そこから何かを学ぶものと信じています。しかし、今のままでは分析も無ければ対策も無い。これでは私はこの授業から何も学ぶ事は出来ません。」教授は、私に「これはフリーディスカッションと思ってほしい。だから思った事を何でもプレゼントしなさい。」と回答。これでは回答にならない、と思った筆者はその後授業での沈黙を貫いた。
 授業が始まって2ヶ月ほど過ぎた頃、クラスメイトが意識的に筆者を避けているのが手に取るように分かって来た。しかし彼らから嫌われるような事は一切していないはずだった。そこで、筆者はエピソード・に登場するアイダホにいる友人にメールを出し、想定できる理由を尋ねた。彼からの回答では「当然だ。周りは君が発言したくないと思っているのではなく、君がプレゼンする能力すら持ち合わせていない、と思っているに違いない。そして、そういう低脳な人間とは距離を置きたいと考えているのだろう。」と。それから、何でも良いから最低2回は1回の授業で発言しよう、と方針を変えたところ、周りの筆者に対する態度が明らかに変わってきたのだ。

■それではディスカッションをどのような位置づけで捉えればよいのか?
 では、このアメリカにおけるディスカッションをどういう位置づけで見ればよいのだろうか?まず、筆者はディスカッションの辞書上の定義自体に問題があると思う。言い換えれば、ディスカッション=議論という定義づけは間違いである。ディスカッション=意見交換とでもした方がまだましである。この定義を踏まえたうえで、ディスカッションとは、意思疎通、つまり、コミュニケーションの手段と捉える事は可能ではないだろうか?アメリカ人にとってディスカッションとは、単なる挨拶と同じようなものだ。日本の議論で求められる正しい回答や相手を打ち負かす事は、ここでは常に付きまとう訳ではない。

■最後に
 以上見て来たように、我々ディスカッション嫌いな日本人にとっては、このアメリカ人の習性は極めて面倒なものだ。しかし、アメリカに住むのなら、このアメリカ人の習性と必ず直面する。アメリカにおいては、ディスカッションはTPOを選ばずどこでも行なわれるからだ。人によっては、困惑する事もあろう。しかしながら、筆者が以前行なったようにディスカッションの場で沈黙してしまえば、周りから相手にされなくなる。従って、ディスカッションへの必要最小限のコミットメントは、人間関係を作るうえで、また、信頼関係を築く上で非常に重要である、と個人的に思う。幸いな事に、アメリカ人は日本人とは反対にディスカッションの質を問わない。何だって良いから(個人的には適当な答えでも良いと思っている)口から言葉を発するべきだ。また、ディスカッションにコミットする事によって、更なる発見もあると思う。筆者はたわいも無いディスカッションを通して、ある友人からはその彼の本当の優しさなるものを実感し、また違う友人からは大きな信頼も得た。
 しかしディスカッションにコミットする事と同時に、自分の個性を前面に出していくという意味においても、日本人のキャラクターである「余計なディスカッションはしない」というポリシーを貫く事もまた重要のような気がする。筆者は今でも不要な議論は避けている。その代わり、自分が重要だと思った事や建設的な回答が求められている場面では、誰も反論できないような回嘯?oすよう努めている。


Last Update : 2003/11/05

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